キャピタル・エンタープライズ創立

代表の斎藤昌孝は、1960年、東京日産自動車販売株式会社入社。1963年、キャピタル・エンタープライズ(キャピタル企業)創立に合わせて、東京日産から出向。創業時から携わる。

創業当時は、日産自動車がノックダウン生産していたA40や、英国から輸入されたオースチンA60、A110の整備から始まり、ミニはMK-1 850から扱うようになる。当時はまだミニの取り扱いはごくわずかだったが、多くの整備を手掛け、多くの技術を習得する。

※上記写真左が当時の斎藤昌孝

キャピタルミニ

1964年、鈴鹿サーキットで開催された第二回日本グランプリに997ccのオースチン ミニクーパー MK-1がエントリー。レースでは転倒しつつも運良く着地して、そのまま最後まで走りきってしまう。結果、T-IIIクラスでメーカーチームのミツビシ コルト、日野 コンテッサに続く、8位でフィニッシュ。

このミニのサポートをしていたのが、キャピタル・エンタープライズ(キャピタル企業)で、斎藤昌孝はレースメカニックとして携わっていた。技術的な様々なトライを繰り返し、ミニの欠点や長所を確実に掴んでいった。

※上記写真は第二回日本グランプリで出走した車両とは別の車両。1967年の東京オートショーに出品されたミニ。当時の価格で220万円の値が付いていた。

1968年 24時間耐久レース

レースならキャピタルというイメージがクルマ好きの間で定着してゆき、ピーク時には数台のキャピタルミニがエントリーし、国産ワークスチームとトップを争うまでになっていた。

当時、キャピタル・エンタープライズ(キャピタル企業)には4,5人のメカニックがいたが、常にレーシングミニに触れていたのは、斎藤昌孝だけであった。

キャピタルミニ最大のニュースは、1968年に富士スピードウェイで行われた24時間耐久レースで、総合2位に入賞したこと。クラス2位ではなく、全てのエントラントの中で2位でゴールしたのである。

※上記写真は1968年の24時間耐久レースで、2位のチェッカーフラッグを受けるキャピタルミニ。ドライバーは早崎治選手と山下勇三選手。もちろん、クラス優勝も果たした

キャピタル退社後、ガレージサイトウを創業

キャピタル・エンタープライズ(キャピタル企業)は1970年代に入ると業績が伸びなくなる。そしてやって来る排ガス規制によるミニの輸入停止。中古車の販売だけでは追い付かず、生き残りをかけて、1978年からルノーの日本総代理店となる。

当時、斎藤昌孝は、キャトル・ターボ2・ルノー25などのメンテナンスに携わる。よって、この時代のルノー車もミニと同様、斎藤昌孝が得意とする車種といえる。

ルノーとの輸入代理店契約が終了後、キャピタル・エンタープライズ(キャピタル企業)はヤナセと代理店契約を結ぶ。このことがきっかけとなり、1990年、ガレージサイトウを創業。1990年代は、レーシングミニにて、JAF戦に参戦。優勝を含む、表彰台に何度も上がる。メカニックだけではなく、レーシングドライバーの顔も併せ持つ。

その後も、レーシングミニの製作、クラシックミニや60年代の英国車やルノー車のメンテナンス、レストア、を多く手掛け現在に至る。